親の介入 [親]
前の記事にも書きましたが、私と乙女ちゃんとの間に親の介入はほとんどありません。それによって乙女ちゃんの自立心が、単なる「思い・願望」だけでなく、現実の能力として養われていったように思えます。つまり、(親や他人に)自分が説明しないとだめなんだ、ということの意識が高まっていったように思えます。
しかし通常の場合、親御さんにとっては何もしないというのは不安なことでしょう。なので、他人との間に親が介入するな、とは言えません。どんな他人がいるかわかったもんじゃありませんし、介入しながらサポートするのは大事なことだと思います。
ただ、明らかに信頼できる学校の先生や施設の人などに関しては、成長する度合いにあわせて、親が介入している姿をなるべく見せないようにすることも必要なのではいかと思われます。
親が介入しないのではなく、あくまでも介入は裏方でしながら、本人にはその姿を見せる度合いを年齢とともに減らす、それを知らせる度合いを年齢とともに減らす、といったことがダウン症者の真の自立心を養うには必要なような気がします。
まだ幼いうちは「お母さんが先生と話したから大丈夫」といったふうに、子供を安心させるために、あえて意識的に介入していることを伝えることが大事なのかもしれません。先生方や他人と親が仲良くしている姿を見せることが必要なのかもしれません。
しかしダウン症者も成長しているのです。成長しているのにいつまでも周囲が小学生のような扱いをしていては成長するものも成長しなくなってしまうような気がします。
大きくなると親の介入は少なくなるんだ、親がいちいち先生と話すことも少なくなるんだ、ということを知ることで、本人にもそれなりの責任感や自覚が生まれるように思えるのです。
乙女ちゃんは当初は、私との会話で、ちょっと困ったり説明できないことがあったら親が代わりに(私に)話してくれるだろう、という感覚があったように思えます。しかしそれがないことを知り、かつ、自分の説明を工夫することで相手(私)が理解することを知り(私もわかったふりではなく、いろいろ聞き返しながらの会話を通して理解しました)、少しずつ自信と自覚を身につけていったように思えます。
親が介入しないといっても好き勝手なことをやっているわけではなく、必要なことは、親に聞いてきて、親の許可をもらってきて、と乙女ちゃんに促します。やさしい健常者の大人ならばともすれば、親に話してあげる、と言ってしまうのかもしれません。あるいは親が、その人(先生や施設の人など他人)に話してあげる、と言ってしまうかもしれません。が、私の場合は、乙女ちゃんが自分で親や私に説明しないと私は何もできないよ、ということを言っていました。
といっても投げっぱなしにはしません。私は原則として自然を当てにはしていません。なので、その都度、こういうふうに言うといい、とか、こういう言い方がある、といったふうに具体的な言葉やフレーズなどを繰り返し伝えます。こういうことを繰り返すことで、状況ごとに適した話し方を少しずつマスターしていくように感じます。本人が困ったらすぐに周囲の大人が動いて、健常者の大人同士で話しあってしまうのではなく(裏でするのは良い)、まず本人にその状況をのりこえる手法を少しずつ繰り返し教えていくことが大事なような気がします。
うまく説明できなくてもいいのです。大事なのは、健常者の大人同士で話すことを暗黙のうちに当然のこととしていつまでも期待できてしまうような環境ではなく、自分でしなくてはならない、ということなのです。これが真の自立心への大きな第一歩だと思います。
親の介入が悪いというのではなく、ダウン症者自身が、無意識にでもそれを当然のこととして生活するのとそうでないのとでは、自立心の発達に大きな影響がでるように思えるのです。親の介入がないということがわかると、少し不安を感じる一方で何か大人になった気分になるものです。(少しの不安すら感じさせてはいけないといった過剰な反応がダウン症者の親御さんにはともすればあるのかもしれませんが、こういった過保護的な反応は、知的障害うんぬんは関係なく、子供の成長を阻害するものだと思います。)
私の場合は少し特異な環境かもしれませんので、通常は、本当に親と周囲が話しあわないのではなく、あくまでも裏で、本人に見えないように話しあって、しかし本人には、他人(先生でも施設の人でもいい)との関係は本人とその他人との間でのみ成立していて親はほとんど介入していない(あいさつ程度)、ということを年齢とともに意識させることが時には必要なように思えます。
親の解釈 [親]
ネットではダウン症児の親御さんのブログがたくさんあります。親御さんにとってはとても参考になるのでしょう。私も参考にしていますが、「親の解釈だな」といった見方をダウン症者の身内でない私は持ってしまうことも多々あります。
親の解釈が悪いわけではありません。いいとか悪いとかの話ではなく、親の解釈はあくまでも親の解釈であり、ダウン症者の考えではないということです。
こんなことはもちろんわかりきっていることでしょう。しかし「親の解釈」は親御さん同士には理解できるので、親御さんの内面に心地よく作用し、それがいつのまにか「ダウン症児の考え」と認識され正当化されてしまうことには少し抵抗を感じるときがあります。
私がダウン症者の親御さんのブログを読むときは、あくまでも親の気持ちや親の解釈はこうなんだな、という視点で見ています。本当にその子がそう考えているとは思っていません。
とくに、こうだ!と断定的な表現になっているときはかなり疑います。自分の子供とはいえ、人間の考えを断定的に解釈することなどできないと思うからです。断定や決めつけは親御さん自身が自分を言い聞かせるためにするのは仕方ないにしても、それはあくまでも自分のためであって子供のためではないということも自分自身に言い聞かせないといけないことでしょう。
なお、乙女ちゃんの場合、他人には親が説明するのに慣れてしまっているのか、親御さんが説明し始めると、それが正しいかどうかは関係なく「おまかせモード」になります。しかし後で乙女ちゃんに直に話を聞くと、ちょっと親の解釈とは違うことを話します。なので私は親御さんからあまり話を聞かないようにしました。乙女ちゃんのことは乙女ちゃんに聞くのがいいのです。
話がずれますが、もちろん最初から、自分の考えをうまく説明できたわけではありませんでした。なぜなら人に説明するのは親に任せるという習慣があるので、説明する能力が未発達だったからです。
いつも親御さんが一緒ではないので、いつも親任せではなかったのでしょうが、あえて彼女に説明を求める他人もいなかったのでしょう。わけがわかなければ放っておいて必要なら後で親に聞けばいいのですから。
しかし私が親御さんから話をあまり聞かないことを知り、かつ、私がそこそこつっこんで話をするので、彼女も自分で説明する意識が芽生えたのか、自分の考えを説明するのが少しずつうまくなっていったのでした。私とのやりとりも、必要なら乙女ちゃん自身が親に説明しなくてはならない状況なので、なおさら責任感というか自覚というのが養われていったようにも思えます。
おそらくこれまでの 私との関係
他人(教師など)との関係
他人 ―――― 乙女 私―――乙女―――親
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親
(↑IEでないとずれます)
なお、私のブログは私の解釈です。しかし私は親ではないので、おそらく親御さんが書くであろうブログとはニュアンスがだいぶ違っていると思います。しかしそれによってダウン症者をとらえることがより多角的にできるものと考えています。





